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「グランド・フィナーレ」(と芥川賞)について。
阿部和重氏の『グランド・フィナーレ』が芥川賞を受賞した。
私は、もちろん芥川賞作品だからという理由ではないが、昨日この作品を読み終えた。
また、前置きとして、好きな作家という問いに対し、阿部氏の名前を挙げるつもりはないが、
私の中では評価の高い作家であるし、阿部氏のほとんどの作品を読んでもいる。

20050218014020.gif

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先ほど"体調が悪い"と書いているにも関わらず、という疑問も自ら浮かびつつ、
本来であるならば、早い所、床につけばいいものの、
その後、飲んだ風邪薬のため、多少の回復をしたことをいいことに、
これを書き始めた。

本来は昨日このことを書き記したかったのであるが、
先の状態ではそれがままならなかったという訳である。

書きたいことは大きく分けて2つある。
ひとつは今回の芥川賞受賞について、
もつひとつはこ『グランド・フィナーレ』そのものについて。

こと、前者に関していえば、
偶然にも発見した、古畑実氏のブログ"文学賞の値うち"にて、
かなり的確に(もちろん私の思いを基準として的確に)書かれているので、
私がここに多くを記すことは止めにしたいと思っている。
私にはこうは書けなかったであろう。

言ってしまえば、阿部氏を受賞させるにしても、
せめて『グランド・フィナーレ』以外の作品にするべきだったのではないかということ。

さて、『グランド・フィナーレ』そのものの話に移りたいと思う。
内容は大まかには次のようなものだ。

ロリコン趣味の主人公・沢見は、
自分の娘や他の少女たちの全裸写真を撮り貯めていたことが
妻に知られて離婚される。
自分の娘との再会に固執する沢見であったが、
知人の暴露により、具体的な性癖を多くの知人に知られ、
東京での居場所を追われる。
その際、知人であった女性Iから叩きつけられる
「それを苦にして、死んでしまう娘もいるんだよ」という言葉。
帰郷を余儀なくされた後、身を案じた友人の紹介で、
地元で催されるお芝居の監督を任されることになり、
そこで彼は2人の少女、亜美と麻弥に出会う。
同じ小学校の生徒でもある2人に演技の個人指導を依頼され、
引き受けることになるのだが、指導が進むにつれて、
2人の少女がそれぞれに抱く複雑な思いに気がつきはじめる。
不安な思いにとらわれながら沢見は指導をつづけるが、、、


まず問題となるのは、"ロリコン"という設定である。

芥川賞選考の中、選考委員の村上龍氏が
「ロリコンとはこんなものじゃない!」と20分の演説して受賞に反対したとのこと。
この村上氏の発言にも頷けるように、主人公・沢見のロリコン度はかなり低い。
離婚に追いやられる過程を嘆き、女性Iからの発言が心に刺さり、
気持ちを抑えている。更正の道を歩んでいく。
しかし、逆を返せば阿部氏はあえてそのような"プチ・ロリコン"の設定にしたように思える。
そういう意味で村上氏の発言は、論理として成立なしえなかったであろう。

少女の写真を撮っていたのも、少し前の出来事として描かれているように、
自分自身の過去のあやまちを露呈することはあっても、
小説の時間進行中にそのような行動に出ることはない。
阿部氏はそうして、あえて、主人公に自制心を与えることによって、
この主人公にリアリティを持たせた。
現実の世の中でも、往々にしている存在として描ききったと言える。

そして、私が阿部作品として『グランド・フィナーレ』が駄作だと感じてしまう
大きな要因がここにある。

阿部氏はこれまで、デビュー以来、一貫して「暴力」と「死」を描きつづけてきた。
そして、その2つを描くことがもはや文学では特別な意味を持つことではない、
という自覚のもとで小説を書いていたように思える。
あくまで、現実に「暴力」や「死」を突きつけたように見せて、
それを、より閉鎖的に追求することによって、
嘘くさい内面や虚構的な現代を表現し、
過度な現実感を帯びた「寓話」を生み出してきた。

そういった意味で『グランド・フィナーレ』は
「暴力」や「死」を突きつけながらも、
自制心によりコントロールされ得る、
それなりの社会人を描いているに過ぎない。

もうひとつ記すべき事柄は、この作品の終わり方にある。

お芝居の練習に熱心な2人の少女であるが、
お芝居後の卒業を期に2人は離れ離れになってしまうことを知っている。
ふとした機会に2人が自殺マニュアルが書かれたHPを見ていることを知った主人公・沢見は、
死への不安に駆られ、クリスマス・イブの夜、懸命に2人を探すも見当たらない。
そして明くる日、お芝居の稽古の時間。
2人を待つ沢見と、いつも通り現れる2人の少女、、、


物語はここで終わる。

誰もが拍子抜けする程の物足りなさを感じるであろうこの終わりは、
読者それぞれに物語の流れとフィナーレを構築させる、
仮想的なマルチエンディングを取ったのかもしれない。

大まかな解釈は2つ。
1、2人の少女に"生"を与えることによって、
現実とのつながりを取り戻していく。
2、2人の少女への思いと、自分の娘への思いを結びつけ、
再び破綻に向かっていく。

芥川賞の受賞報道や宣伝で記されている範囲で言えば、
確実に前者の"希望に満ちた終わり"と解釈されているようである。

読者がどちらの終わりを予見するかは、
終わり付近の次の一文をどう読むかに順ずる部分が大きいのではないだろうか。

「去年のクリスマスからまる一年が経った今、カメラを手にしなくなったわたしは、
言葉のみを使いこなして現実に介入しなくてはならない難儀な場所へと辿り着いてしまった」


最後に私が書き記したいのは、
この『グランド・フィナーレ』という作品が、
つり広告に書かれているような、
「奈良小学生誘拐事件を予見したのか」
という見解が成り立つ作品ではないだろう、ということ。
本作装丁に書かれているような、
「文学が、ようやく阿部和重に追いついた」
と言われるべき作品ではないだろう、ということ。

『グランド・フィナーレ』と名付けられたこの作品が、
『グランド・フィナーレ』で有り得るためには、
表現され得ぬ部分に"寓話性"を持つことが、不可欠であろう。
今日の私のラッキーワード

『イルカにのってみたいな』

無邪気さをアピールすると吉、とのこと。

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2005/02/18(金) 02:02:51| しるし| トラックバック(-) コメント(-)
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