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"死"という実感。
確か小学校の頃、10歳の頃と記憶している。
思い返してみると、この記憶は鮮明に蘇らせることができる。

その頃、私は"死"ということが恐く、
眠れぬ夜を過ごしていた。
もちろん"自分の死"ということことがである。
おそらくは、"死"という概念を認識し始めた頃
だったのであろう。
そして、その"死"というのは、"無"という意味であった。

例えば過去の人々を考えた時、
400年以上前、戦国時代に"死"を迎えた人々は、
その瞬間に"無"となり、400年以上の間、"無"が続いている。
もちろん、今後も永遠に続いていく。

10歳の頃の私は、布団に入り、天井の模様を眺めながら、
そんなことを考えていた。
眠れなかったのではない。眠りたくなかった。
眠るということがそのまま"死"という"無"を
受け入れる行為であるように思えていた。。。

現在の私は、
眠るという行為に対して、恐れを持ってはいない。
むしろ、前のめりで受け入れている有様である。
しかしそれは、"死"ということを受け入れている訳ではなく、
"死"に対しての実感がなくなった訳でもない。
単に"死"と眠るという行為への認識が切り離されただけである。

"死"に対する言葉が"生"である限り、
"死"に対して向き合うことが、
"生"に対して向く合うことになるように思える。

10歳の頃の私は、激しく"生"に固執していた。
この自己感覚と言うべき、記憶は、
今も尚、私の体に実感として刻まれている。
今日の私のラッキーワード

『もしかして変な病気?』
さりげなく友人を気づかってあげると吉、とのこと。

この台詞に、、、気遣いが感じられない、、、
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